私たち日本人は、生命は神様から授かったものとして日々の生活や人生のさまざまな節目には、家族揃って神社にお参りをし、神様に感謝とこれから先のご加護を祈ってきました。
我々の日常生活そのものが、神様と深い関わりを持っており、 中でもお子さんは「初宮」「七五三」などの人生儀礼において神社にお参りすることで、神様に見守られていることを感じて意識するようになると、心の平安と安心が生まれます。
人生節目の祈願・祈祷とは、命を授かってから一生を終えるまで、人生の節目節目に必要とする神詣(かみもうで)のことです。無事に過ごしてこられたことを奉告・感謝し、家族共々の今後の安泰を祈りましょう。
私たち日本人にとって大切な「人生儀礼」をご紹介します。
赤ちゃんが生まれ無事に成長した七日目を大切な節目の日と定め、「お七夜」と呼びお祝いします。
この日は、赤ちゃんのお名前を決めて神棚にお供えし(床の間に飾る)、初めて産着に袖を通す儀式が行われます。
この年ごろの子供の年祝いをする古くからの風習に由来するもので、3歳の男女児の「髮置」、5歳の男児の「袴着」、7歳の女児の「帯解」のお祝いがございました。
長寿を祝う儀式を「年祝い」と言います。両親や祖父母をはじめ、家族が長寿であることほどおめでたいことはありません。年を重ね、無事に人生を送ってこられたことを感謝し、更に今後の厄災消除(やくさいしょうじょ)、身体健康、延命長寿(えんめいちょうじゅ)をお祈りします。家族揃って神社へ参拝し、お祓いを受けられるとよいでしょう。
干支が一巡して生まれた時の干支にかえるお祝いです。生まれ直す、すなわち赤ちゃんにかえるという意味合いから、赤い頭巾やちゃんちゃんこ・座布団などを贈ってお祝いする習慣がございます。
唐の詩人杜甫の詩「人生七十古来稀なり」という言葉からつけられました。お祝いの仕方は、時代や地域により、また各ご家庭それぞれで違い決まった形式はございません。
喜の略字が七・十・七に分解されることからつけられました。
傘の略字が八・十に分解されることからつけられました。
半という字が八・十・一に分解されることからつけられました。また将棋盤の目が八十一あることから盤寿ともいわれます。
米という字が八・十・八に分解されることからつけられました。
卒の俗字「卆」が九・十に分解されることからつけられました。
百の字から一をとると白という字になることからつけられました。
もし、今、私たち大人が子どもに戻ると、あらゆることが非常に強烈に感じることでしょう。
自分が浜辺を駆け回ったり、貝殻を集めたりしているところを、あるいは庭で蝶を追いかけているところを思い出して見てください。
ものごとがまったく全面的に違っていたことを・・・
命がどれほど色彩に満ちていたかを、あらゆることが、どれほど奇跡的だったか、驚きだったかを思い出してみてください。
その時、私たちはそのエネルギーに満ち、輝き、沸き立ち、喜びに溢れていたことか!
それらは大人になった今とは、まったく異なった次元にあり『小さなこと、意味のないこと』にも喜んだものです。遊び心に満ち、すべてのことが不思議で必ず神秘的でした。
しかし、大人になった今でも、それと同じことがまた起こりうるし、再び起こらねばならないと思います。
ゆえに、還暦の祝いに赤いちゃんちゃんこを着て、私たちはまた、子供心を取り戻すということだと思います。決して参拝や儀礼はカタチの風習ではなく、節目節目に、神々が私たちの前に舞い降りるための機会であり、それが参拝や儀礼の意味ではないでしょうか?
前田正甫公と豊栄稲荷神社の秘話
藩政においては父の方針を受け継いで藩制の確立に努め、文武を奨励して多くの有能な人材を招聘した。金沢藩の支藩として成立した富山藩はゆえに、越中国内の旨味の良い土地は金沢本藩がおさえていた為、10万石といえど財政は豊かではなかった。正甫は新田開発や治水工事を行って生産力を向上させることは勿論、自領の低い農業生産力に頼るだけではない、その他の殖産興業に努めることで、藩財政を豊かにしようとした。但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始し、産業奨励などにも積極的に行なった。また、正甫は病弱であったとされ、ゆえに薬学に興味を持ち、(史料的な裏付けは無いが)江戸城腹痛事件で名をあげたとされる富山の反魂丹などの製薬業を奨励して諸国に広め、越中売薬の基礎を作った。
「只今、調整中にてご迷惑をおかけしております。」
平成29年 七夕祭まで あと
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