300年以上守り伝えられてきた伝統と、クスリの富山には、切っても切り離せない歴史的な関わりのある前田正甫公を当宮ではお祭りしてあります。呉羽山のゆたかな四季折々の自然の中で行われるお祭りや、行事を通し、もっと先人たちの郷土愛を感じていただけますよう、ここから歴史を紐解いていきたいと思っております。
ですが、堅苦しいことは申しません。あなたの笑顔がひとつでも多くなるように・・・ただ、ただそれだけなのです。
当宮へご参拝の際には、みなさまのご都合に合わせてゆっくりとお楽しみください。山頂からは富山市街が一望できる展望台もあります。
もし、今、私たち大人が子どもに戻ると、あらゆることが非常に強烈に感じることでしょう。
自分が浜辺を駆け回ったり、貝殻を集めたりしているところを、あるいは庭で蝶を追いかけているところを思い出して見てください。
ものごとがまったく全面的に違っていたことを・・・
命がどれほど色彩に満ちていたかを、あらゆることが、どれほど奇跡的だったか、驚きだったかを思い出してみてください。
その時、私たちはそのエネルギーに満ち、輝き、沸き立ち、喜びに溢れていたことか!
それらは大人になった今とは、まったく異なった次元にあり『小さなこと、意味のないこと』にも喜んだものです。遊び心に満ち、すべてのことが不思議で必ず神秘的でした。
しかし、大人になった今でも、それと同じことがまた起こりうるし、再び起こらねばならないと思います。
ゆえに、還暦の祝いに赤いちゃんちゃんこを着て、私たちはまた、子供心を取り戻すということだと思います。決して参拝や儀礼はカタチの風習ではなく、節目節目に、神々が私たちの前に舞い降りるための機会であり、それが参拝や儀礼の意味ではないでしょうか?
前田正甫公と豊栄稲荷神社の秘話
藩政においては父の方針を受け継いで藩制の確立に努め、文武を奨励して多くの有能な人材を招聘した。金沢藩の支藩として成立した富山藩はゆえに、越中国内の旨味の良い土地は金沢本藩がおさえていた為、10万石といえど財政は豊かではなかった。正甫は新田開発や治水工事を行って生産力を向上させることは勿論、自領の低い農業生産力に頼るだけではない、その他の殖産興業に努めることで、藩財政を豊かにしようとした。但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始し、産業奨励などにも積極的に行なった。また、正甫は病弱であったとされ、ゆえに薬学に興味を持ち、(史料的な裏付けは無いが)江戸城腹痛事件で名をあげたとされる富山の反魂丹などの製薬業を奨励して諸国に広め、越中売薬の基礎を作った。
「只今、調整中にてご迷惑をおかけしております。」