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豊栄豊栄稲荷神社は 富山藩第2代藩主 前田正甫公によって御創建されました。
「富山が豊かに栄えていくように」そんな先人達の思いは300年余り経た今もこの地に息づいています。
神主として神社にいると、たくさんの出会いがあります。
大きな会社の社長さん、ご見識の深い大学の先生、呉羽山を散歩されるご夫婦や若いカップル、七五三や初宮のお子さんまで。私が神主にならなければ、出会うことのなかった人々との出会い、その一つ一つを大切にして、神社に来られる方々が気持ちよくお参りできるような環境を整えていくことが神主としての使命だと感じております。
神社は伝統・文化を守ることはもちろんのこと、その伝統・文化を伝え、新しい情報を発信出来る場にしていきたいと思っております。
多様な人々が集い、学び、安らぎ、笑顔や笑い声があふれる神社にすること。
それが、御創建された前田正甫公の「富山が豊かに栄えるように」との思いを受け継ぐことに繋がるのではないかと、そう考えております。
菅原家は、天穂日命に起源をもち、曾祖父古人公の時代に、学問をもって朝廷に仕える家柄となりました。
また、道真公の祖父、清公公は私塾を設け、同所からは朝廷の要職に数々の官人を輩出し、菅原家は一大学閥となっていきました。
また、道真公は幼少の頃より学問の才能を発揮され、わずか5歳で和歌を詠まれるなど、神童と称されました。その後もさらに勉学に励み、学者としての最高位であった 文章博士となり、栄進を続けられました。
学問だけでなく、弓にて百発百中の腕前を披露されるなど、文武両面に傑出した人物として、その名を馳せていました。
【少彦名神】
・わが国で医薬の祖新とあがめる神
【前田正甫命】
・富山売薬の祖と仰ぐ前田正甫公
【前田利保命】
・十代藩主で本薬学の大家だった前田利保公
【万代常閑命】
・反魂胆の処方を伝授された万代常閑命
いままから約400年前の備前岡山の医師でしたが富山売薬の代表薬である反魂丹の処方を富山に伝えた方です。この反魂丹で大名の腹痛が治った事がきっかけになり、富山で薬作りが盛んになりました。
【日比野古兵衛命】
・反魂胆の処方を正甫公へお取次ぎしたお方
【松井屋源右衛門命】
・製薬を担当した松井屋右衛門宗弘命
【八重崎屋源六命】
・配置業者の祖、八重崎屋源六命
この七柱をお祭りしてあります。
医学の神と富山売薬及び医薬の発展に尽力された方々。
太陽、光、慈愛、真実、秩序を象徴する最も尊い神さまです。
弟の須佐之男命(すさのおのみこと)のあまりにも乱暴な行いを悲しまれた天照大御神が天岩戸(あまのいわと)にお隠れになった時、世の中は光を失い闇の世界となり、作物も育たず、秩序も失われたといわれています。
天照大神は、天皇のご祖先であり、全ての国民の祖神(おやがみ)さまとして伊勢の神宮(内宮)にお祀りされています。
大陸から先進文化を伝え、日本国土の発展に貢献された秦伊呂具公(ハタノイロクコウ)は呉羽丘領を守っておられます。また、稲荷神社の「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」には、 秦伊呂具公が賀茂建角身命24世賀茂県主の末子と示されています。
また日本に来た時、一緒に連れてきたのが機織りの達人だった『呉服女神(クレハトリノカミ)』と『綾服女神(アヤハトリノカミ)』です。
富山藩初代藩主 前田利次公が 延宝2年(1674年) 7月7日に江戸城内で倒れ息を引き取られたため同年9月に前田正甫公は25歳で家督を継ぎ、 父の方針を受け継いで富山藩の経済発展に尽力されました。
有能な人材を他藩から招き、鉱山の開発や製鉄業などあらゆる方面において富山藩の財政安定への道を模索されました。
また、正甫公は製薬業にも関心を持たれ、売薬を広められた殿様としても有名です。
正甫公が所持しておられた「反魂丹」は江戸城で腹痛に苦しむ大名に与えて速効があったことから、諸藩の求めに応じて全国的に販売をするようになり、それまで農業に偏っていた富山藩の産業を見直し、商業や産業の発展を目指す政策をとられました。
豊栄稲荷神社は前田正甫公が財政難に陥っていた富山藩を何とか豊かな藩になって貰いたいという思いから、京都の伏見稲荷大社より御分霊を頂き、勧請された稲荷の大神をお祀りする神社として、富山城に程近い藩の蔵の側に創建されました。 豊栄稲荷神社の石碑には「殖産振興 守護の宮」とあります。
いつの時代も豊かに生きたいと願う人々の思いがあり、そのために奮闘してきた人々の努力があります。
■「魂を呼び戻す」というので反魂丹
14世紀の初めごろ、松井源長という武士の母が重い病気にかかりました。いろいろ手を尽くしたものの、症状は悪化するばかり。あとは神仏に頼るしかないと、立山に登り一心に祈願しました。するとその夜の夢の中で阿弥陀如来から妙薬の作り方を授かったのです。
急ぎ帰ったものの、ひと足ちがいで母は亡くなっていました。嘆き悲しみながらも源長は薬を調合、母の口に注ぎました。するとどうでしょう。母は生き返り、病気も治っていました。阿弥陀如来に「まだ来るのは早い」と言われ、不動明王に「早く返れ」と背をたたかれたそうです。つまり「身体に魂を返してくれる薬」というのが反魂丹の名の由来です。(とやまの民話より)
前田正甫公と豊栄稲荷神社の秘話
藩政においては父の方針を受け継いで藩制の確立に努め、文武を奨励して多くの有能な人材を招聘した。金沢藩の支藩として成立した富山藩はゆえに、越中国内の旨味の良い土地は金沢本藩がおさえていた為、10万石といえど財政は豊かではなかった。正甫は新田開発や治水工事を行って生産力を向上させることは勿論、自領の低い農業生産力に頼るだけではない、その他の殖産興業に努めることで、藩財政を豊かにしようとした。但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始し、産業奨励などにも積極的に行なった。また、正甫は病弱であったとされ、ゆえに薬学に興味を持ち、(史料的な裏付けは無いが)江戸城腹痛事件で名をあげたとされる富山の反魂丹などの製薬業を奨励して諸国に広め、越中売薬の基礎を作った。
「只今、調整中にてご迷惑をおかけしております。」