御祭神

豊栄稲荷神社の御際神

神社の受付にてお申し込みください(300円)。神社に神職が不在な場合も多いので、事前にメールで確認されることをお勧めします。富山稲荷神社にご参拝された方の御朱印も豊栄稲荷神社受付にて承ります。

正月など対応が追い付かない場合や、神主が不在の場合など、事前に書いた御朱印にて対応させていただく場合があります。ご了承ください。

稲荷大神

国史大図鑑編輯所編『国史大図鑑』

第一神 宇迦乃魂神

宇迦之御魂神の説明のところは、「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は全国の稲荷神社で主祭神としてまつられる神様です。「宇迦」は「ウケ」(食物)に通じ、食物と縁の深い神様として知られています。五穀豊穣・産業更新・商売繁盛・家内安全・芸能上達・金運向上・諸願成就などのご利益があるとされています。

第二神 佐太彦神

天孫降臨の際に邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した神。先導の神。導きの神と知られています。
何か始めようとしている人、人生の道に迷っている人々に行く道を示してくれる道ひらき大神です。

画:葛飾北斎

第三神 大宮売神

大宮売神(おおみやのめのかみ)とは、心が和楽していっさいの憂いや苦しみが消えるように魂を平らかにする神です。荒ぶる神たちの言動を言葉で静まらせたり、天皇の朝・夕御膳に携わる者たちが邪意悪意なく宮仕えを安らかに行えるように指導する役目を持ち、宮殿守護に和合をもたらす女神です。

薬 祖 社

少彦名神 (スクナヒコナノミコト)

古事記では神産巣日神の子、日本書紀では高皇産霊尊の子体の小さい神で、大国主神と協力して国づくりを行ったのち常世国に帰られた。わが国で医薬の祖神とあがめる神。

画:歌川国芳
富山城址公園 前田正甫 銅像

前田正甫命

富山藩二代藩主

当時財政難を抱えていた富山藩の産業経済を育成するため様々な政策を実行しました。とりわけ製薬業を奨励し、「反魂丹」などの生産販売、「先用後利」という置き薬のシステムの確立を通して、越中売薬の基礎を築いた名君として知られます。宝永元年(1704年)、富山藩の産業経済の発展を願い、豊栄稲荷神社を創建しました。

前田利保命

十代藩主で本薬学の大家だった前田利保公
利保は博物大名として知られた。相次ぐ凶作などで藩財政困窮を産物方を設置し、陶器製造業、薬草栽培などの産業を奨励して財務再建を図った。特に薬草栽培には力を入れ、岩崎灌園や宇田川榕庵を師として自ら本草学を学び、本草学に傾倒する余り「草癖」を揶揄された。
「本草通串」「本草徴解」「本草通串澄図」「万香園裡花壇綱目」など薬草に関連した多くの著作を残している。領内の下ノ茗温泉を拠点として、自身が実地で採取調査したと記録されている。

作者不明 -富山市博物館所蔵

その他の薬祖

【日比野古兵衛命】
・反魂胆の処方を正甫公へお取次ぎしたお方

【松井屋源右衛門命】
・製薬を担当した松井屋右衛門宗弘命

【八重崎屋源六命】
・配置業者の祖、八重崎屋源六命

成 就 天 満 宮

菅原道真公

菅原家は、天穂日命あめのほひのみことに起源をもち、曾祖父古人公の時代に、学問をもって朝廷に仕える家柄となりました。
また、道真公の祖父、清公きよきみ公は私塾を設け、同所からは朝廷の要職に数々の官人を輩出し、菅原家は一大学閥となっていきました。

また、道真公は幼少の頃より学問の才能を発揮。わずか5歳で和歌を詠まれるなど神童と称され、その後もさらに勉学に励み学者としての最高位であった 文章博士もんじょうはかせとなり、栄進を続けられました。
学問だけでなく、弓にて百発百中の腕前を披露されるなど、文武両面に傑出した人物として、その名を馳せていました。

画:菊池容斎

祖 神 社

画:歌川国貞

天照大神

太陽、光、慈愛、真実、秩序を象徴する最も尊い神さまです。

弟の須佐之男命(すさのおのみこと)のあまりにも乱暴な行いを悲しまれた天照大御神が天岩戸(あまのいわと)にお隠れになった時、世の中は光を失い闇の世界となり、作物も育たず、秩序も失われたといわれています。

天照大神は、天皇のご祖先であり、全ての国民の祖神(おやがみ)さまとして伊勢の神宮(内宮)にお祀りされています。

呉 羽 社

呉 羽 社

秦伊呂具(はたのいろぐ)公は渡来系の豪族であり、伏見稲荷大社を創建したことで知られます。呉服女(くれはとり)と綾服女(あやはとり)は百済から帰化し、呉羽山にて子女に機織りの技術を教えたとされています。

天照大神は、天皇のご祖先であり、全ての国民の祖神(おやがみ)さまとして伊勢の神宮(内宮)にお祀りされています。

豊栄稲荷神社 境内

秦伊呂具公(ハタノイロクコウ)

秦伊呂具(はたのいろぐ)公は渡来系の豪族であり、伏見稲荷大社を創建したことで知られます。呉服女(くれはとり)と綾服女(あやはとり)は百済から帰化し、呉羽山にて子女に機織りの技術を教えたとされています。

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