沿 革

豊栄稲荷神社と前田正甫公

富山藩初代藩主 前田利次公が延宝2年(1674年)7月7日に江戸城内で倒れ息を引き取られたため同年9月に前田正甫公は25歳で家督を継ぎ、 父の方針を受け継いで富山藩の経済発展に尽力されました。当時、財政難に陥っていた富山藩を何とか豊かな藩になって貰いたいという思いから、京都の伏見稲荷大社より御分霊を頂き、勧請された稲荷の大神をお祀りする神社として、富山城に程近い藩の蔵(千石蔵)の側に創建されたのが豊栄稲荷神社です。その後も前田正甫公は有能な人材を他藩から招き、鉱山の開発や製鉄業などあらゆる方面において藩の財政安定のため、多大な努力をなされたという事です。豊栄稲荷神社の社号標には「殖産振興 守護の宮」と刻まれています。

前田正甫公と富山と反魂胆

それは江戸城での小さな出来事でした。元禄3年(1690)富山藩主前田正甫公が江戸城に参勤した時のことです。諸大名が居並ぶ中で、ある藩主が突然腹痛を訴えられました。正甫公が印籠から反魂丹を取り出して勧めたところ、たちまち腹痛が治まったのです。あまりの薬効の早さに驚いたのが、その場にも居合わせた諸大名たち。「自領内で販売してもらえないだろうか」と申し入れが相次ぎました。他国との交流を嫌った藩政時代としては異例のことで、これが越中売薬の起源と言われています。それ以来、今まで農業に偏っていた富山藩の産業を見直し、商業や産業を発展の柱とした政策に力を入れるきっかけとなりました。

1974年 豊栄稲荷神社 復興

昭和49年10月に県下の企業・商店などからのご支援・ご奉賛により現在の呉羽山の地へ遷座されることとなりました。新しい社殿の設計は富山県文化財専門委員・文化財修復技術員として腕を振るわれた、松本太作先生にお願いし、周囲の緑に映える鮮やかな朱色の社殿が完成しました。

1975年 鳥居完成

昭和50年には鳥居も建てられました。前田正甫公の抱いた富山の産業振興と、そこに住む人々の繁栄という願いは、今も同じ志を持つ人たちによって綿々と受け継がれています。遷座当時に植樹された木々も大きく育ち、梅、桜、紫陽花といった四季折々の花も境内を彩っています。呉羽の森の中で、今日も豊栄稲荷神社は皆様の御参拝をお待ちしております。

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